昭和44年06月23日 朝の御理解



 御理解 第74節
 「かわいいと思う心が神心じゃ。」

 私共が信心をさせて頂いて、様々な過程を通らせてもらい、求める焦点というものが、だんだん変わってそれがだんだん高いいわゆる高度な、それでいて深い又は広い信心を求めて行く訳でございます。そこのところから神心を求めての信心、いうならば信心、真心、、神心と、こう言われておりますここではね。先ずおかげを求めてでも良い、神様の働きというものを信じる。それが確信とまでこう高められていくものでなからなければならない。そこから今までかつて使こうた事のない心ね。
 今までかつてそういう心が、自分の心の中にある事も知らなかった心、いわゆるまごころ。簡単にまごころというけれども、今まで思うておったまごころと思うのは、まごころではなかった。これがまごころっていうものであろうかと、自分でも気ずかせて頂くような、まごころが使われる。いわゆる真心である。本当にこのまごころが使えるとね。誰彼これが人間関係であるなら、誰彼の境なしに自分に、例えば縁のある人達の上にまごころが使えれる。
 縁があるとかないというのでなくて、もっと深い深い意味合いにおいての例えば縁、いうなら世界の中の例えば人間ね。深いとか広いとかそこに私は皆さんが願っている祈りの言葉に仰っておられる、世界真の平和であるとか、世界総氏子の助かりとかと言った様な、いわば一見縁のないようなそこにも縁を感じてですね、そしてその事が祈らなければおられないという心。深い広い心それがまごころですね。そういうまごころが高められる、そこに私は神心、お道の信心を生神への道だと言う風にも言われますね。
 いわゆる篤い神心、いわゆるその神心を求めての信心ということになるですね。そこでこの御理解を「かわいいと思う心が神心じゃ」と、これは教祖様が大阪の近藤藤守先生が御参拝の時に、御理解下さった御教えだと承っております。ですからそのかわいいと思う心が神心じゃと、こう仰る神心というものがです、だから神心というものは、かわいいというものだという事が言えますね。これはかわいいというのはかわいらしいというのとは違うね。子供や孫や目の中に入れても痛くない程にかわいがる。
 そのかわいいとは違う。いうならば敵も味方も愛せれる心。例えば虫けら一匹。ここでこの御理解は、あのうすずめを霞網で取りますね、その情景を見られた近藤藤守先生がその事を金光様に、世間にはかわいそうな事をする氏子がおりますと、何にも知らんすずめが一網打尽に、一遍に取られてしまうなんて、本当にかわいそうな事をする人間がおるもんだと、言う様な事をお話なさった時に、そのかわいいと思う心が神心じゃと、この御理解を書かれたということでございますが。
 まあ今申しますように、敵も味方も愛せれる心。いうならばすずめ一匹の上にでも、そういうかわいい愛情というかそういう心ね。そういう心がです私の心の中に育っていっておるかどうか、そういう心が育っていくということが、いわゆる神心へ向かっての信心を絶えず自分で検討しながら、向かっていっておる者の姿勢だと言う風に思うんです。神心どころか本当に浅ましい、まぁ言うならば仏心の反対の、いわば夜叉のような鬼のような、浅ましい事を考えたり怖い事を考えたりしておる自分。
 そう言う様なものとの対決になる訳ですけれども、そこに改まりが要求されるわけなんですね。だからそういう全ての上に、かわいいと思う心と言う様なものが育っていく信心。もう大変おおらかな悠長な、とても私共の手の届きそうもないような目当てですから、そんな気がするんですけれどもそうではない。そこにはやはりもう一歩一歩、信心前進させてもらえれる、そのまぁ厳しい信心修行がなされた上の事でなからなければ、例えば神心などということは、とうてい分からないと私は思うんですよね。
 ここの七十四節を頂きましてから、今日は大体どう言う様な事を、この中から下さるだろうかと思うたら、昨日お道の新聞が来ております。まぁ新聞の俳句の投稿欄があります。俳句が時々載っておるのですけれど、その中にしま様に「リス遊ぶ山の深さや椎の花」というのがあります。リスというのは可愛らしい動物ですよね。椎の木というのがありましょう、あの椎の花ですね。信心の深さとか広さとかと、言う様なものを求める山の深さやというところに、修行の深さね。
 そこにリスというかわいらしい動物を使ってあるですね。リスという。そこからかわいいということを感じたんですよね。いわばそこにはこの山の深さや修行の深さ。そういう信心。同時に私はこれを開けてからはっきり分かったことは、信行期間が七月一日より三十一日迄のひと月間に変わっておる事です。ここはいつも五十日間ですから、もう既に始まっている訳です。私思うんですけれどもこれは教会全体がですね、まぁ人が人偏なら私は行人偏と言った様な御教えを頂いたことがありますけれども。
 よその教会が三十日間なら、うちは五十日間というくらいな修行の精神というものが、こりゃもうこれから恐らくこういう事になるのでしょうけれども、こりゃもう恒例の合楽恒例の修行期間にさせて頂くのであろうと私は思います。そうでしょう今迄通りですからね。ですからそこんところがです、なら人が人偏なら私は行人偏、というくらいな銘々の信心修行態度というものが、教会挙げての場合であってもね、よそが三十日なら私は五十日間と言う様に、その意欲を燃やすということ。
 私はそれも最近非常に感じる事なんですけれども、この教徒社のこの金光教徒を見てから思うのですけれども、最近新しい言葉を使っておられるということですね。これもこの前の教主就任式の時の教官の御挨拶でしょうがね、「大願、大願を実現せん」と言う様な講題でお話しになっておられる。今迄この大願と言う様な言葉をあまり聞いた事がなかったですね私が、唯聞くのは泉尾の教会のまぁいうなら、これはあっちの先生が発明された言葉のように、あちらではあちらの書物など読ませてもらうと。
 大願という言葉を使ってあります。お道の信心では悲願達成とね、「御取次成就信心生活運動」と言った様な事は、大願ということになるわけでしょうね。そういうことを私思う。まだ読んでないから分かりませんけれども。大願を実現せんこれは私共の願いと言った様なものじゃないと思うですね。内容読んでないから分からんですけれどね、これは私やはり神の願いだと思うですね。神の願い大願ね、その大願に私共が添わせて頂くということが、そのまま私共の願いもまた、大願ということになるんです。
 目先目先の小さい事ではない。儲かったとか病気が治ったとかね、まぁ例えば人間関係の煩わしさとか言った様な中からです、そういうことをおかげ頂いていくというのではなくて、そう言う様な事、いわゆるそういう難儀を通してですね、大願成就のそれを修行と思わせてもらう。そこに私はこの大願が実現されるためのね、実現がそれは分りませんけど、いつの事か分かりませんけれどもですよ、とてもとてもね大変な事なんですから。けれどもその大願成就実現のために。
 私共が一歩一歩それに貢献しておるということになるんです。神の願いの成就の事のためにね、意味はあんまり変わらんようですけれども大変違うてくる。お互いさまざまな難儀と言う様な問題、難儀と感じる経済、健康、人間関係、様々な苦しみ難儀というものがある結果、その事をどうぞどうぞ助けて下さいということから、これは私共の小さい願いなんですいうなら。けれどもそういう難儀を通してです、私共がそれこそ神の願いの成就の事のための、それが修行だと言う風に頂ける時にです。
 その願いはもうあなたの願いあなたの願いではなくて、神の願いですから、いわば大願成就に私共は奉賛しておるということになる訳です。昨日佐田さんのところの二番目の娘さんが富美恵さん、昨日日曜でまぁ皆んな参って兄弟全部みんな参って来ておりましたが、お夢を頂いたと言うてお届けをするのですね。それがその浅い所で魚を釣っておるというお知らせ。それがまるきり水たまりのような所。そしてそのもうあのめだかというですか、雑魚のような、それが一匹釣れたと言う様なお知らせね。
 それこそ浅い水たまりのようなところで魚を釣ってです、大きな魚が釣れるようにと異様な願いをかけておるような、愚かな考えの信心をしておる人が、しかしどのくらいおるか分らんです。信心の深さ広さに触れようとせずに、そしておかげだけはそのう大きな願いが良いというので、大きな願いをしておると。そんなに浅いところに大きな魚が住むはずもありません。そしたら今度はもうそりゃ大変深いところでまた魚を釣っておる。それが先生夢の中でですよ。
 二時間も頑張りましたけれども、一匹の魚も釣れませんでしたというお知らせであった。まぁお知らせですよね。私は御神夢だと思います。子供ながらにでも本当に信心の何たるかということをですね。あのう小さい小さい考え目先目先の姑息的な考え、そういうことに信心を行使する事なくです、もっともっと深い広い信心をさせてもらう。そういう深いところにはもう絶対大きな魚が居る事だけは間違いない。ただ二時間もかかっておるけれども釣れないだけの事である。
 だから勿論そこには反省がいります。時々いわば餌を取り替えるとか、食い逃げされとりはせんだろうかと言った様に、それを確かめなければならん。そうそうその浅い所で釣っておるというのは、餌もつけずにその浅い所で釣っておるというのですよ。そんなのが、どのくらいあるか知れません。餌もつけずにそのうおかげを願う。願うというね。そこにんね最近言ういわゆる三昧の境地があるんだということ、いわゆる釣り三昧であるね。太公望を決めこむ。大きな魚を釣ろうと思う。
 そこに二時間も頑張りましたけれども一匹も魚は釣れませんでしたとこういう。けれどもその二時間の間が楽しいのだ。又その二時間の間が修行なんだ。まぁだ三時間かかっても釣れんかもしれん。けれどもそのう大きな魚がおる事だけは間違いがないのだ、そこには。昨日、田主丸の石井さんむつやさんの所の、恒例の謝恩祭がございました。本当に有り難いと思いますがもう。もう若い社長さんである石井信司さんを中心にして、あのう店が動いております。
 その周囲にもう皆んなの善意がいっぱい溢れておる。むつやが立たなきゃならん、むつやがどうでも繁盛しなければならん。そういう願い祈りの中に信司さんがもう実に、私感じたんですけれども、慎ましやかにあの店を守っておるということであった。それは例えて申しますとね、もう若い世代になったもう俺の時代になったんだから、今迄例えば年寄り達にはやれなかった、なんか派手な事でもパッとやって、そのうやろうと言った様な風なものではなくてですね。
 やっぱりそのお母さん達が残したあの店を、しかも皆んなの善意に守られながら、あれを続けていっておるという。ちょうど御神前の横の床の間に、お花が曼珠沙華のような形をした、紫色の花がいっぱい咲いた花が三本入れてあった。もう実にそれがねもう素朴な、もうてらわなるほどもうひとっつも、もう見て下さいと言った様なものでなくて、それでいて垢ぬけしている、それでいて可愛いい。しかも紫の花を上にはいっいぱ上にはつけておる。「信司さん今後のあなたの信心はこの花だ」と、私がいうんです。
 もう今のままでもうやぁやぁ言うて信心する事はいらんばい。もうぼっちぼちこういう信心をもうぼちぼち進めていきなさい。というてそのぼちぼちち言うちから、なんがりなんがりちゅうのじゃなかばい。一歩一歩前進して行けという意味だというて私、話した事ですけれども一獲千金とかね、一遍にと言うたもんじゃなくて、確実に信心の歩みというものを身に付けて行くと言う生き方。一歩一歩ならむつやが繁盛して行くという生き方。丼ぶりのない信心、そういう信心をしっかり身に付けて行かなければいけないよと。
 それにはどこをそんならお互い目指させて頂くかというと、いわゆる信心を頂く、信心を目指していくというのである。昨日秋永先生があるところに、信心共励がございまして参りました。総代さん方も出席致しました。それでお話聞いて私も感じたんですけれども、そのうどうすれば教会が繁盛するか、まぁ幹部の人達が、どういう信心すりゃ教会が発展するか、ということにいつの場合も絞れば終始するのですけれどもですたいね。その前集まっておる、そんなら総代幹部という人達が。
 果たしてどの様な信心をしておるであろうかと。自分の教会は例えばそばに在っても、お日参りすら出来ない人がです、いかにその事をいわば企画したり、又は教会の発展を願っておるようにしておっても、繁盛する筈はない。その総代達だけでもいいじゃないか、本気で修行させてもろうて、教会の発展を本気で祈らせてもろうたら。そこでそんならもう永年その会が続けられておって、教会が一向に発展しないという癌はどこにあるか、どういう信心すりゃ発展するかと。
 そこで大体いうなら私は言うなら、秋永先生に話した事ですけれども、どうしてそんなら合楽教会だけは、あぁして皆んな大祭なら大祭たんびに、信者が増えていきよるということは、自分たちも参って来て知っておるんだから、合楽はどういう訳であげんに言うならば、段々繁盛して行きよるじゃろかと、合楽はどういう信心なさるんですかと、もうそこに目の前に例えば言うならそのう手本があるのだけれど、なら合楽の信心を分かろうとは皆んながしない。
 おかしな話だねと言って話した事でした。いかにも合楽は確かに発展しよるなるほど。けれども合楽の行き方じゃあいかんと、言う様な私はものじゃなかろうかと思うのですね。行くとかいかんとか願いとしとるところは、教会のそれぞれの発展の事を願っておるのですね。ですけれどもまたこちらが押し売りをするという訳にはいけんというのが、まぁここから出席した方達の気持ちなんですけれども。いやまたいらないだからもう実に言っても下らないと、自分達のプラスにはひとつもならないと、なる程これじゃおかげが受けられん筈だという、おかげの受けられん見本を見て来る様なもんだと。
 まぁいうならば、いうなら馬鹿らしい会合だと、もうそんなこ事をですね、そういう様な事を私は昨日、それでもやはり教会の教会という事、個人としてならもう行く値打ちの全然ない会合だけれど、教会としてのそのう御用だからと思うてやらしてもらうという、そのことを私さっき様子をあのう思い出してから、ほんなこつなぁしかしこりゃ毎月なら毎月一回必ずあってるんだから、それがそういうまぁ無味乾燥な事で一日を費やすなんて、馬鹿らしい事だなぁと私思うたらですね。
 私は陣地構築ちゅ事を頂いたんです。陣地を構築する。ははぁしてみるとこりゃねこりゃ総代の会だから、この次にある時にゃ合楽でいっちょ総代さん全員がですね行って、本当にその道のいうなら姿を向こうに見せると、言った様なもんじゃなくてですね、そういうもんじゃないですよ。本当の道の発展というかね、銘々の教会が発展する事は、そのまま道の発展に繋がる事でございますからね、それにはどうしてもこれは私の確信ですけれども、合楽の合楽的信心と私は言う申します。
 と言わねばならん程に今狭い訳ですけれども、実を言うたら金光教のご信心はこうあるべきだ。かくあるあるのが本当だと言った様なものをです、やはりあのうこれは教団なら教団でも言うなら、そういうその大砲のなら陣地構築をこうして、大砲が据わったりねいろんな、本当にそのうまぁ現代の教団の中に打ち込んで行く為のですね、そういう御準備がそういう中からでもあっておるんだと言う風に感じて、これはやはり成る程自分の小さい自分の為の利害とか。
 大した為になるとかならんとかと言った様な小さい考えを捨ててです、いわゆる大きな見地教団の本当の、いわゆるここにも有ります大願成就の事の為に、お互いが会合をしたらいいんだなと是からはと言う風に思うたんです。それにはどうしても私共がですね、そういうそのう深い広いそういうその心というものをですね、目指しての信心。いわゆる神心を目指しての信心。今日頂く事の中にはですね「四の五の言わずに」と言う事を頂いた。例えば共励会なんかで、はぁこれが本当だあれが本当だと言う事ですよね。
 もう悪い言葉で言うとこの辺の「四の五の言うな」と文句言うなと言う様な事になりますけれども、いわば四が本当だ五が本当だと言う様な事を言わずにです、もういっちょその大きな、そういうことなんか言うなら、リス遊ぶであるね。そういう事はもう遊ばせ可愛いと言う様な心で遊ばせておいて、山の深さに入って行くのだ。「リス遊ぶ山の深さや椎の花」である。それにはどうしてもかわいいと言う心が、本当に意味での可愛いという心が育たなければ、そういう信心は頂けない身につかない。
 私共の心の中に可愛いと思う心が神心じゃと、私共その神心を目指しての信心なんだ。そんならその神心の内容というのは、可愛いというものでなからなきゃならんのだ。この可愛いという心が、広いのであり深いのであり、高いのであり高度なものだと。だからそういう信心を、んなら大きゅうなりさえすりゃよかですねと、言う様な簡単な訳にはいけないのだ。そこに人が人偏なら私ゃ行人偏と言った様な、厳しいまでの信心。目先目先の小さい願いであったその願い、そのものは願いでいいけれどです。
 その願いを通して大願成就のそれに繋がっておるということ。私共の願いというものがです、大願に繋がっておるかどうかと。大願という神の願いと、私はここでは聞いて皆さんも聞いてもらったんですけれども、私共の願いというのは個人の小さい小さい、小欲に絡んだところの願いである。それは経済の事であり健康の事であり、又は人間関係の事なんだけれど、生きて行く上にやはり痛ければ痛い、痒ければ痒いという所をです、撫でたり摩ったりもしてもらわなければ立ち行かんのが私達なんだけれど。
 そういう修行をです、私共が大願成就の事のための修行だという受け取り方なんです。そこにです、神の大きな願いにここに馳せ参じると言うかね、奉賛する事が出来る訳です。そういう願いが沢山集まるところにです、私はその大願がいよいよ成就していく、おかげになって来るんだと言う風に思うんです。そういう意味でです例えば私の場合ね、人が人偏ならということではなく、という小さいものではなくてですね、他所の教会が人偏的な修行、全教あげてたとえば五十日間の信行期間が。
 今度一月間に言わばなっている訳でしょ。なら教団全部の人達は夏季信行を三十日間に短縮したならば、私共はねやはり五十日間の修行をさせてもらう、そして教団のまぁ遺恨と言うとまぁさですけどね。いよいよの教団発展のために、その教団発展が世界の真の平和に繋がるものである事を確信してですね、現代の金光教ね新しい、例えばひとつの新風を送れるくらいの信心を頂く。そのためにお互いそういうひとつの抱負を持ってですねぇ、そういう願いを持ってです。
 私共信心の稽古をさせて頂くなら、自分の例えば共励会なんかに臨んでもです、もう詰まらんあげな話もう合楽であれだけの御理解頂きよるけん、もうあげんとは聞いたっちゃ同じこつと言った様な、小さい考えではなくてですね、そういう大きな願いの成就する事の為に、私共が奉賛させて頂こうとういう心がです、私は可愛いという心ではなかろうかとこう思う。可愛いというのはそういう心。可愛いと思う心が神心じゃ。
 そこでなら私共が神心を実際にこうして目指しとるのですから、なら神心の内容が果たして可愛いというものになっておるかどうかね。向こうが向こうならこっちもこっちと言った様な小さいまぁ考え方じゃないか。これではやはり同んなじですからね。向こうは向こうであっても、こちらはやはり信心で行こう。いわゆるそこを神心で行こうと言う様なおかげを頂きたいとこう思う。
 ひとつ今日頂きます「リス遊ぶ山の深さや椎の花」これの句の意味というのは違った所に有りましょうけれども、御理解に頂く所のその句というものを、ひとつ本気で味あわせて頂きたい。可愛いものとして遊ばせれる自分の心の中に遊ばせれる、そして自分はより深い山のいわばいよいよ深い広い修行に入って行く。例え釣れる釣れないは別として、そこに信心の妙境というか三昧境を開かせて頂きながらの信心に進んでいきたい。
 可愛いと思う心が神心じゃというのは、私はそういう意味に於いて今日は、可愛いという私共の心が、どの程度にどの方向にかわいいと言う心が、進展して行っておるかということをですね。確かめさせてもろうて、いよいよ可愛い心それが即ち神心。その神心をいよいよ頂いてゆきたいというふうに思います。もちろん私は思うんですけれども、その深い広いところでね、これはそれこそ鯨の住むようなおかげというか、鯨の住むようなおかげがね、その約束されるというとまだちっとまだ信心があれですけれども。
 そのこれは願わんでもそういうおかげが飛び込んで来る事を、私は確信致します。どうぞ浅い所から大きな魚を求めようと言った様な、それこそ愚の骨頂のようなですけれど、信心の上では往々にしてです浅い信心しかせずに、大きないわば魚を狙っておる様な信心、信者がどのくらい多いかわからん。改めて思うていよいよ深い広い、いわば高度な信心を目指して、いわゆる信心、真心、神心、最後の神心を目指しての信心を頂きたいなとこう思います。
   どうぞ。